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2006/02/25

演じること

こんばんは。
今日も越中幻想の続きではありません。すみません。
思いついてしまったものは鮮度の高いうちに書いてしまった方がよいのです。
ということでお茶のみ話感覚でお読み頂けるとうれしいです☆
これを書いている私はお茶ではなくお酒を飲んだ後ですが(笑)

さてさて、この頃小説の映画化が流行ってますね。
「いなほの旅」で出てきた「姑獲鳥の夏」もそうですし、
ここ最近の映画だと「博士の愛した数式」(原作がとっても好きです)や
「プライドと偏見」(ダーシーさんの不器用っぷりがたまりません)
なんかもそうですね。
で、こういう原作があるものの映画でよく言われること。
「内容がカットされている部分がある」「原作と構成が違う」
・・・よくありますね。
原作小説が長いと映画の時間におさまりきらず、
どうしてもカットをしなくてはいけない部分や
構成を変えないといけない部分が出てきます。

そもそも小説の映画化をする際に、
原作者が脚本も監督もするのも多いかというとそうではないので、
原作者とは違う人の手が入ることになります。
原作者の手を離れるわけですね。
この時点でもう作品は「原作者のもの」ではなくなります。
脚本家や映画監督も含めた「受け手」のものになるわけです。

そう考えると原作小説と同じタイトルを冠した別のもの、
と考えざるを得なくなります。
ただ、元は同じ素材(原作)を用いているのですから、
やはりその作品の本質がきちんと守られていて欲しいと思います。
作品の本質というものがどういうものであるかと考えるのも
なかなか難しいのですけどね。

以前打楽器のお話をしました。
人手や打楽器そのものがなくて泣く泣くカットせざるをえないときがある、
というお話ですね。
曲そのものについてもやっぱり同じで、
出来ることならやっぱりカットしたくないのだけれど、
カットせざるをえない時があります。
私は以前「たなばた」をコンクールで吹いたのですが(一部カットしました)、
そのときも「いつかはカット無しで吹きたいね」というお話をしていました。
(ちなみに昨年実現しましたよ☆)
曲そのものを大事にするのであれば、
やっぱりカットするのは心苦しいですよね。
ならば、カットするときも自然と曲を大事にするカットの仕方
(というと変な話ですが)を考えるのかな、と思いました。

タイトルと話の内容がいまいちつながってませんが
映画は「上演」し、役者が「演技」する。
音楽は「演奏」する、というつながりでこのタイトルになりました☆
そんなこんな、です(*^-^*)

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